• このページについて

    当サイトのこのページは、映画・映像産業人のオーラル・エピデンスの収集を

    目的として、業界の方々と連携し、御本人や関係者にインタビューをするものです。

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    転載や引用をされたい場合は御連絡頂ければ幸甚です。

  • 第1回 岡本弘監督

  • 岡本弘監督へのインタビュー  


    プロフィール】

    本 弘 (おかもと ひろし)

    テレビドラマ監督 映画監督 舞台演出家

    1943年(昭和18年) 4月21日 中華民国北京市に生まれる。

    誕後もなく、家族と共に東京都浅草千束に帰国。

    1968昭和43)年 早稲田大学卒業。

    業と同時フリーランスの助監督として多くのテレビドラマに参加。

    1980年代席巻した大映テレビ作品などで監督として手腕を振るう。

    1990年から2015年まで、『土曜ワイド劇場』(テレビ朝日系)で、複数の

    リーズ作品を同並行で監督した。


  • メイン・インタビュアー

    プロフィール】

    岡秀樹(おかひでき) 

    1966年生まれ 広島県出

    阪芸術大学 映像学科卒業後、1994年より助監督として活動

    土曜ワイド劇場「救急救命士牧田さおり」シリーズへの参加が縁で、

    岡本弘監督と出会う。

    土曜ワイド劇場「救急救命士牧田さおり」

    シリーズへの参加が縁で、岡本弘監督と出会う。

  • 「父への想いがこの仕事に向かわせた」

    岡「まずはご出生のことをお聞かせください。中国は北京のお生まれとお聞きして

    いますが」

    岡本「1943年――昭和 18 年の生まれ。当時僕の父親は、”映画の父“と云われた

    牧野省三氏の依頼で中国華北電影股份有限公司(ちゅうごくかほくでんえいふん

    かゆうげんこうし)で監督をしていた。僕が生まれて一年もしない頃、

    日本に帰国。東京浅草千束町の家で暮らすようになった」

    岡「どのような御家族でしたか」

    岡本「映画に縁の深い家族だった。祖父は映画プロデューサ―の高松豊次郎、父親

    は映画監督の高松操――監督名を吉村操と名乗った時もある。

    岡本芳子と結婚し、高松から岡本に姓を改めた。帰国後、父は大映東京撮影所企画部に入社。

    その後、大都映画(だいとえいが)に移籍し、1945 年 3 月 10 日の東京大空襲で死亡した。

    当時僕は 2 歳。父親についての記憶はまったく無い」

    岡「戦後もそのまま東京に住んでいらしたんですか」

    岡本「うん。空襲で被災した後は、映画撮影所の敷地で暮らしていた」

    岡「撮影所...ですか?」

    岡本「そう。日本映画の黎明期――無声映画の時代を支えた映画制作会社の中に

    「高松プロダクション」というものがあった。僕の祖父、高松豊次郎が

    大正 14 年(1925 年)に興した会社。当時高松プロダクションは、東京府の吾嬬(あずま)町(現在の墨田区京島)に

    映画撮影所を持っていました。吾嬬(あずま)撮影所。そこは屋根の一部と壁の一部がガラス張りだった。

    当時のフィルムの感度が良くなかったので照明用のライトに自然光を足して撮影していたようだ」

    岡「はあ......」

    岡本「現在そこの跡地には、“近代映画スタジオ発祥の地”を示す記念碑が

    建てられている。終戦後、岡本家はその吾嬬撮影所があった場所へ移り、

    そこで僕は育った」

    岡「そうでしたか...お父様が映画監督だったというだけでなく、育った場所が

    撮影所とは。映画との所縁を感じます」

    岡本「撮影所と言っても跡地だ。空襲で焼けなかった空っぽのスタジオが残っていただけ。廃墟のようだった。

    だけどあそこで過ごした少年時代、僕は父親の「影」のようなものを、あの場所に見ていたような気がするんだ」

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    父 高松 操(みさお)氏

    岡「お父様の生きた、映画・映像の世界に少しずつ誘われていたのかもしれないですね」


    岡本「そうかもしれないな……」


  • 「修行の日々――テレビドラマの黄金時代」

    岡「ご卒業は1968(昭和43)年3月。この時、一般企業への就職活動はなさったのでしょうか」


    岡本「それはまったく選択肢になかった。当時はただただ映画監督になりたいと思っていたから。

    だが残念なことに、どこの映画会社も助監督の入試をやっていなかった。新規採用を取りやめていたんだ。

    だから卒業と同時にフリーランスの助監督になった。

    カラー放送も一般化して、フィルム製作のテレビ映画が黄金期を迎えていた頃。

    まさにテレビ全盛期でね、多くのテレビドラマに参加したよ」


    岡「どんな監督さんにつかれましたか」


    岡本「多くの監督の助監督をしたなあ…。富本壮吉監督。降籏康男監督。野村孝監督。内藤誠監督。

    江崎実生監督。西村潔監督。松尾昭典監督。恩地日出夫監督…」

    岡「大映、東映、日活、松竹、東宝、邦画大手五社の監督さん。錚々たるお名前です」


    岡本「映画興行の斜陽化が進んで、才能豊かな監督たちがテレビドラマの世界にどっと押し寄せてた。

    そういう時代に揉まれて勉強させてもらった」


    岡「助監督でお仕事されていた制作会社はどちらが多かったんでしょうか」


    岡本「1970年ぐらいから、大映テレビが多くなったね。70年代後半からは、もうほとんどあそこが主戦場だったかな」


    岡「そんな多忙を極めてらしたさなか、1973年に早くも監督デビューなさってますね。円谷プロダクションの特撮作品で」


    岡本「『ファイヤーマン』。あれがデビュー作」


    岡「『ファイヤーマン』を監督された後も大映テレビの『赤い』シリーズ、『二人の事件簿』シリーズなど多くの作品で

    助監督をなさっています」


    岡本「うん、とにかく忙しい日々だったかな……」


    岡「チーフ助監督のお仕事と並行して、監督作品も増え始めて行きます。1977年『明日の刑事』(第74話)、

    『赤い絆』(第23,26話)。1978年『人はそれをスキャンダルという』(第10,12.17話)。

    1979年『私は逃げない』(第41~45話)。80年代に入るや監督作品の比重がぐんと増えます。

    大ヒットした『スクール☆ウォーズ』は全26話のうち3分の1以上の話数を監督されています」


    岡本「そうだったかな?」


    岡「忙しすぎて覚えていませんか」


    岡本「いや、『スクール☆ウォーズ』は忘れることはないな。実在した高校のラグビー指導者とラグビー部の学生の話だったので、

    彼らの名誉を傷つけてはいけないとすごく神経を使った。苦労した分、印象も強かったから」

    「2時間サスペンス――“長時間ドラマ”」

    岡「1990年代に入ってからは2時間枠のサスペンスドラマや、スペシャルドラマを監督される機会が目に見えて増えています」


    岡本「そういう時代だったね。『火曜サスペンス劇場』、『土曜ワイド劇場』、『木曜ゴールデンドラマ』……すべてのキイ局が、

    あらゆる制作会社とタッグを組んで長時間ドラマを放送し続けていた。僕の主戦場はテレビ朝日の『土曜ワイド劇場』だった」

    岡「1時間ものの“連続ドラマ”と、2時間サスペンスのような“長時間ドラマ”。監督をなさる上でなにか違いはありましたか」


    岡本「別に違いは感じてないな。1時間の連続ドラマだろうが2時間ドラマだろうがその与えられた作品に対して

    全力で向き合うので、1時間でも2時間でも変わりはないな」


    岡「監督の思いや狙いは作品の長さには左右されない、ということですね。しかし実際の現場では、

    監督と異なる意見も、常にあったのではないですか?」


    岡本「もちろん局プロデューサー、主演俳優、作家にも強い思いがある。

    それらも受け止めつつ、作品にまとめ上げて行く作業は大変だったかな。でも楽しかったよ」

  • 「監督としてのふるまい・作風」

    岡「ドラマを撮る上で気をつけていらっしゃることはなんでしょうか」

    岡本「色々あるけど僕が大切にしてきたことは、“分かりやすさ”。変にこだわり過ぎて、自己満足の作品にしてしまうことは良くないかな。テレビドラマとしての“分かりやすさ”を十分担保したうえで、映画的な表現、“画や無言の芝居で情感を想起させる”ことを心掛けてきたかな?」


    岡「そういう瞬間を助監督として何度も目撃しました」


    岡本「もうひとつ大事なことは、“シナリオに込められたテーマを尊重する”。監督としてこれ大切なことで、その中で自分なりの色にして行くことをやって来たかも知れないな」


    岡「撮影現場ではどんなことを心掛けていらっしゃいますか?」


    岡本「撮影に要する時間は常に短くし、不要なものは極力撮らない。自分の不安をごまかすために、アレもコレも…と撮っていちゃあキリがない。頭の中に、“完成形”を描いた上で現場に臨む。これ、富本監督から学んだこと。この姿勢は僕も貫いてきたつもりだ」


    岡「岡本監督は”迷いが無かった“と思います。俳優にもスタッフにも、目指すべき方向をはっきりとお伝えになり、非常に短い時間で監督が望む画やお芝居を次々獲得されていた印象です」


    岡本「そんなこと無いよ。いつも悩んで悩んで現場に立っていたよ。でもスタッフやキャストに悩みを悟られないようにしていたことは事実です」

    岡「そうですか。でも現場はいつも、リズミカルにテンポよく進んでいました。遅い時間まで撮影することもほとんどなく。

    だけど“ここぞ!”という大事な場面は非常に繊細に、丁寧に演出されていました。岡本監督の現場にはメリハリがあったと思います」

    「監督としてのふるまい2・シンキングタイム」

    岡「もうひとつ良いでしょうか」

    岡本「何ですか?」

    岡「先ほどから伺っている“監督としての振る舞い”についてです。ご自分の演出プランに”間違い“があった時や、

    俳優さんの思いがけないお芝居で演出プランを変更せざるを得なくなった時の監督の対処の仕方。とても印象深かったです」

    岡本「確かに神様じゃないからなあ。そういう瞬間はたまにあったはず。で、そういう時、僕はどうしていましたか?」

    岡「スタッフから俳優部まで、その場の全員にこう仰るんです。『ごめん!僕に3分間、時間を下さい』…と」

    岡本「………」

    岡「3分が5分の時もあれば、『8分ください!』っていう時もありました。でも10分以上はありませんでした。

    で、その間、現場は和やかにストップして、お茶やメイク直しが始まります。そのすぐ横で監督は無言でシンキングタイムです」

    岡本「そんなこともあったかな?」

    岡「はい。それで約束の時間が来たら、監督はまた全員に仰います。『これこれこういう理由で、僕の当初のプランを修正します。

    ○カット前まで戻って撮り直しをさせてください。セリフはそのままですが、お芝居はこんなニュアンスに変えましょう。

    カメラワークも変更します』…と。そのアイデアが本当に斬新で。僕も助監督ですからシンキングタイムの間、

    ずっと考えているんですが、思いもつかないプランの発表に毎回ドキドキしたものです」

    岡本「よく覚えてるなあ(笑)」

  • 「富本壮吉監督」

    岡「岡本監督には“師匠”と呼べる方はいらっしゃいましたか」


    岡本「うん、それは間違いなく富本壮吉監督だね」


    岡「富本監督。大映ご出身の方ですね。20本以上の映画を監督された後、テレビドラマ「ザ・ガードマン」の演出を経てフリーランスになられた…と」


    岡本「富本さんは当時の大映テレビの看板監督でね、僕は助監督時代、頻繁に富本壮吉監督に付かせてもらったんだ」


    岡「どんな監督さんだったのでしょうか」


    岡本「さっき話した僕自身の”監督としての振る舞い“。あれはほとんど富本監督から受け継いだもの」


    岡「ああ……」


    岡本「『赤い迷路』(1974年)、『二人の事件簿』(1975年)、『赤い運命』(1976年)、『赤い絆』(1977年)なんかで本当に御世話になった。僕にとって、“お手本”というほかない人だった。あらゆることを教わり、考えさせられた」


    岡「考えさせられた、と言いますと」


    岡本「富本監督はね、僕に答えを示してくれないんだ。他のチーフ助監督には『スケジュールの読みが甘いよ』とか、

    『シナリオの解釈、ここが僕とずれてるぞ』みたいな感じで間違いを指摘してくれていた。でもなぜか僕には、

    ニンマリ笑いながらふわあっとした言葉しかかけてくれない」


    岡「はあ……」


    岡本「あれはもう“禅問答”みたいな感じだった。だから富本監督の思いが何なのか、ひたすら考えるしかなかった」


    岡「それは、“信頼されていた”、“目をかけられていた”ということですよね」


    岡本「うーん、そうなのかな。…どうかな。でもこれは間違いなく言える。富本監督には本当に鍛えていただいた」

    「師匠の仕事を受け継ぐ」

    岡「富本壮吉監督のご享年は62歳でした」


    岡本「うん。残念だった。あまりに早い」


    岡「富本監督が亡くなられたのは1989年。テレビ朝日の2時間ドラマ枠で『松本清張サスペンス』や『家政婦は見た!』シリーズ

    (1983~/主演:市原悦子)などヒット作を連打されていたさなかのことでした。その頃、岡本監督はどうされていましたか」

    岡本「『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』、『アリエスの乙女たち』――大映テレビの連続ドラマを監督し続けていた頃だった。

    もう助監督ではなかったから、富本監督にもしばらくお目にかかっていなかった」


    岡「そんなタイミングで、富本監督と再会されたんですね」


    岡本「テレビ局と製作会社のプロデューサーと僕に、揃ってお呼びがかかった。富本監督は言われたよ。

    『体調が芳しくない。『家政婦は見た!』の新作は、岡本監督に委ねたい』と」


    岡「なんとお答えされたんでしょうか」


    岡本「到底無理だと思った。師匠と仰ぐ人が手塩にかけて育てた番組だよ。あの時点で6作を数えていたヒット作品だ。

    それを、何も知らない人間がひょいっと顔を出して監督するなんて……そんな真似、できるわけないじゃないか」


    岡「……はい」


    岡本「だけど一方で、撮影開始の予定日は迫っていた。だから僕はこう提案した。『わかりました。

    現場で“よーいスタート”と“カット”は私がかけますので、富本さんは”OK“か”NG“かのご判断をお願いします』……と」


    岡「……富本監督はなんと」


    岡本「『岡本君、現場に大将はひとりだ。ひとりじゃなきゃ駄目なんだよ』と仰られた。それを伺って僕も腹を括った。

    7作目の『家政婦は見た!』が完成して無事オンエアされたのは4月。そのひと月半後、富本監督はお亡くなりになった」


    岡「見届けられた、ということでしょうか」


    岡本「……。富本さんからバトンを受け継いで10年以上、僕は「家政婦は見た!」を監督し続け、お陰様で26作目まで紡ぐことができた。

    いつか監督に会えたら『やれるだけやりましたよ』とご報告できるかな(笑)」

  • 「デビュー作の思い出 『ファイヤーマン』

    岡「300本以上のドラマを監督されてきたわけですが、ここでデビュー作の話に戻らせて下さい」


    岡本「助監督5年目の1973年。大映は大映でも府中のテレビ部ではなくて調布の方の大映スタジオ、あそこで

    『ファイヤーマン』の本編班でチーフ助監督をしていた。撮影も終盤に差し掛かったある日、

    プロデューサ―の円谷粲(あきら)さんに呼ばれてね、『一本撮ってみない?』と突然、水を向けられた」

    岡「予想外でしたか」


    岡本「特撮番組での監督デビューなど全く想定していなかったんでねえ。ありがたいけど、到底うまくやれる気がしない。

    なんとか断る方法はないものか……と考えた末、『僕が脚本を書いて良いなら監督させてください』と、条件を出したんだ。

    無論、脚本なんて“無茶な要求”であることを承知の上。こう言っとけば『うーん、そりゃちょっと難しいなあ』という返事が

    返ってくるはずだと思ってね。ところがプロデューサーの円谷粲さんは『いいよ。それで!』と即答するんだ。これには面食らった」


    岡「もう逃げられませんね」


    岡本「それで基本のアイデア、ストーリーの流れを作り、実姉でシナリオライターの育子に連絡し共同で脚本を仕上げたんだ。

    当時は“使い捨ての時代”で、ごみが大きな社会問題になっていた。

    ゴミの島“夢の島”を舞台に、使い捨ての事を問題にした作品を作りたかったので、子供を主人公にすることは最初から決めていた。

    子供が大切にしていた壊れたハーモニカを母親が勝手に捨ててしまい、子供は探し回る……」


    ※『ファイヤーマン』第24話「夜になくハーモニカ」……捨てられたハーモニカが突如巨大化して、

    “夜の夢の島”でヒーローと対峙するファンタジックな物語。視聴者に大きなインパクトを与えた。

    佐川和夫特技監督の画作りのダイナミズムも相まって、当時の少年少女ファンに忘れがたい記憶を刻んだ一篇となっている。


    岡本「今でも大好きな作品」

  • 「映画と『縁』ある一族」――未来への夢

    岡「色々なお話を伺いましたが、岡本監督のみならず、御一族揃って映画に御縁が深いですよね」


    岡本「そう。最初に話したが、祖父の高松豊次郎は映画制作会社の社長兼プロデューサ―。父の高松操(監督名、吉村操)は映画監督。若干18歳で大河内伝次郎主演作品で監督デビューし、38歳で亡くなるまでに200本程度の作品を遺した人だった」


    岡「凄まじい本数ですね。岡本監督の早撮りは、お父様の血を受け継がれているのでしょうか」


    岡本「そうかもしれません」

    岡「今後、どんな作品をお作りになりたいですか?」


    岡本「絶対に起こしちゃいけない“戦争の無慈悲さ、醜さ”を伝える、笑いと涙いっぱいのファンタジックな映画をね。私も歳を重ねましたが、伝えたいこと、声を大にして言いたいことはいっぱいある。それを分かりやすく、楽しく観客に投げかけて行きたいって気持ちは益々大きくなるばかりです」