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  • 第1回 岡本弘監督

    最終取材日 2025年8月28日

    掲載日   2025年11月25日


  • プロフィール】

    本 弘 (おかもと ひろし)

    テレビドラマ監督 映画監督 舞台演出家

    1943年(昭和18年) 4月21日 中華民国北京市生れ

    誕後もなく、家族と共に東京都浅草千束に帰国。1968昭和43)年 早稲田大学卒業。業と同時フリーランスの助監督として多くのテレビドラマに参加。1980年代席巻した大映テレビ作品などで監督として手腕を振るう。1990年から2015年まで、『土曜ワイド劇場』(テレビ朝日系)で、複数のリーズ作品を同並行で監督した。

  • 画像本人提供

  • メイン・インタビュアー

    プロフィール】

    岡秀樹(おかひでき) 

    1966年生れ

    広島県出

    阪芸術大学 映像学科卒業後、1994年より助監督として活動。土曜ワイド劇場「救急救命士牧田さおり」シリーズへの参加が縁で、岡本弘の作品の参加。

  • 画像本人提供

  • 「父への想いが

    この仕事に向かわせた」

    「まずはご出生のことをお聞かせください。中国は北京のお生まれとお聞きしていますが」

    岡本「1943年――昭和 18 年の生まれ。当時僕の父親は、”映画の父“と云われた牧野省三氏の依頼で中国華北電影股份有限公司(ちゅうごくかほくでんえいふんかゆうげんこうし)で監督をしていた。僕が生まれて一年もしない頃、日本に帰国。東京浅草千束町の家で暮らすようになった」

    「どのような御家族でしたか」

    岡本「映画に縁の深い家族だった。祖父は映画プロデューサ―の高松豊次郎、父親は映画監督の高松操――監督名を吉村操と名乗った時もある。岡本芳子と結婚し、高松から岡本に姓を改めた。帰国後、父は大映東京撮影所企画部に入社。 その後、大都映画(だいとえいが)に移籍し、1945 年 3 月 10 日の東京大空襲で死亡した。当時僕は 2 歳。父親についての記憶はまったく無い」

    「戦後もそのまま東京に住んでいらしたんですか」

    岡本「うん。空襲で被災した後は、映画撮影所の敷地で暮らしていた」

    「撮影所ですか」

    岡本「そう。日本映画の黎明期――無声映画の時代を支えた映画制作会社の中に 『高松プロダクション』というものがあった。僕の祖父、高松豊次郎が 大正 14 年(1925 年)に興した会社。当時高松プロダクションは、東京府の吾嬬(あずま)町(現在の墨田区京島)に映画撮影所を持っていました。吾嬬(あずま)撮影所。そこは屋根の一部と壁の一部がガラス張りだった。当時のフィルムの感度が良くなかったので照明用のライトに自然光を足して撮影していたようだ」

    岡:「はい」

    岡本:「現在その跡地には、“近代映画スタジオ発祥の地”を示す記念碑が建てられている。終戦後、岡本家はその吾嬬撮影所があった場所へ移り、そこで僕は育った」

    岡:「そうでしたか...お父様が映画監督だったというだけでなく、育った場所が撮影所とは。映画とのゆかりを感じます」

    岡本:「撮影所と言っても跡地だ。空襲で焼けなかった空っぽのスタジオが残っていただけ。廃墟のようだった。だけどあそこで過ごした少年時代、僕は父親ののようなものを、あの場所に見ていたような気がするんだ」

    岡:「お父様の生きた、映画・映像の世界に少しずつ誘われていたのかもしれないですね」

    岡本:「そうかもしれないな」

  • 父 高松 操(みさお)氏

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    岡本弘監督所蔵写真

  • 「2時間サスペンス――

    “長時間ドラマ”」

    岡:「1990年代に入ってからは2時間枠のサスペンスドラマや、スペシャルドラマを監督される機会が目に見えて増えています」


    岡本:「そういう時代だったね。『火曜サスペンス劇場』、『土曜ワイド劇場』、『木曜ゴールデンドラマ』……すべてのキーイ局が、あらゆる制作会社とタッグを組んで長時間ドラマを放送し続けていた。僕の主戦場はテレビ朝日の『土曜ワイド劇場』だった」

    岡:「1時間ものの“連続ドラマ”と、2時間サスペンスのような“長時間ドラマ”。監督をされる上でなにか違いはありましたか」


    岡本:「別に違いは感じてないな。1時間の連続ドラマだろうが2時間ドラマだろうがその与えられた作品に対して全力で向き合うので、1時間でも2時間でも変わりはない」


    岡:「監督の思いや狙いは作品の長さには左右されない、ということですね。しかし実際の現場では、監督と異なる意見も常にあったのではないですか」


    岡本:「もちろん局プロデューサー、主演俳優、作家にも強い思いがある。それらも受け止めつつ、作品にまとめ上げて行く作業は大変だったかな。でも楽しかったよ」

  • 「監督としての

        ふるまい・作風」

    岡:「ドラマを撮る上で気をつけていらっしゃることはなんでしょうか」

    岡本:「色々あるけど僕が大切にしてきたことは、“分かりやすさ”。変にこだわり過ぎて、自己満足の作品にしてしまうことは良くない。テレビドラマとしての“分かりやすさ”を十分担保したうえで、映画的な表現、“画や無言の芝居で情感を想起させる”ことを心掛けてきたかな

    岡:「そういう瞬間を助監督として何度も目撃しました」

    岡本:「もうひとつ大事なことは、“シナリオに込められたテーマを尊重する”。監督としてこれは大切なことで、その中で自分なりの色にして行くことをやって来たかも知れない」

    岡:「撮影現場ではどんなことを心掛けていらっしゃいますか」

    岡本:「撮影に要する時間は常に短くし、不要なものは極力撮らない。自分の不安をごまかすために、アレもコレも……と撮っていてはキリがない。頭の中に“完成形”を描いた上で現場に臨む。これは富本監督から学んだことで、この姿勢は貫いてきたつもりだ」

    岡:「岡本監督は”迷いが無かった“と思います。俳優にもスタッフにも、目指すべき方向をはっきりとお伝えになり、非常に短い時間で監督が望む画やお芝居を次々獲得されていた印象です」

    岡本:「そんなこと無いよ。いつも悩んで悩んで現場に立っていたよ。でもスタッフやキャストに悩みを悟られないようにしていたことは事実です」

    岡:「そうですか。でも現場はいつも、リズミカルにテンポよく進んでいました。遅い時間まで撮影することもほとんどなく。だけど“ここぞ!”という大事な場面は非常に繊細に、丁寧に演出されていました。岡本監督の現場にはメリハリがあったと思います」

  • 「監督としてのふるまい

       2・シンキングタイム」

    岡:「もうひとつお伺いしたいのですが」

    岡本:「はい」

    岡:「先ほどからお話し頂いている“監督としての振る舞い”についてです。ご自分の演出プランに”間違い“があった時や、 俳優さんの思いがけないお芝居で演出プランを変更せざるを得なくなった時の監督の対処の仕方、とても印象深かったです」

    岡本:「確かに神様じゃないからね。そういう瞬間はたまにあったはずで――でそういう時、僕はどうしていましたか?」

    岡:「スタッフから俳優部まで、その場の全員に『ごめん!僕に3分間、時間を下さい』とおっしゃるんです。」

    岡本:「………」

    岡:「3分が5分の時もあれば、『8分ください!』っという時もありました。でも10分以上はありませんでした。そしてその間、現場は和やかにストップして、お茶やメイク直しが始まります。そのすぐ横で監督は無言でシンキングタイムでした。」

    岡本:「そんなこともあったかな」

    岡:「はい。それで約束の時間が来たら、監督はまた全員に『これこれこういう理由で、僕の当初のプランを修正します。○カット前まで戻って撮り直しをさせてください。セリフはそのままですが、お芝居はこんなニュアンスに変えましょう。カメラワークも変更します』と話されていました。そのアイデアが本当に斬新で驚かされたものです。僕も助監督ですからシンキングタイムの間、 ずっと考えているんですが、思いもつかない監督のプランの発表に毎回ドキドキしたものです」

    岡本「よく覚えてるなあ(笑)」

  • 「富本壮吉監督」

    岡:「岡本監督には“師匠”と呼べる方はいらっしゃいましたか」

    岡本:「うん、それは間違いなく富本壮吉監督だね」


    岡「大映のご出身の方ですね。20本以上の映画を監督された後、テレビドラマ『ザ・ガードマン』の演出を経てフリーランスになられた。」その後大映テレビの作品を多く撮られています。

    岡本:「富本さんは大映テレビの看板監督でね、僕は助監督時代、頻繁に富本壮吉監督に付かせてもらったんだ」

    岡:「どんな監督だったのでしょうか」

    岡本:「さっき話した僕自身の”監督としての振る舞い――“あれはほとんど富本監督から受け継いだものです」


    「そうなんですね」


    岡本:「『赤い迷路』(1974年)、『二人の事件簿』(1975年)、『赤い運命』(1976年)、『赤い絆』(1977年)などで本当に御世話になった。僕にとって、“お手本”というほかにはない方でした。あらゆることを教わり、考えさせられた」


    「考えさせられた、と言いますと」


    岡本「富本監督はね、僕に答えを示してくれないんだ。他のチーフ助監督には『スケジュールの読みが甘いよ』とか、『シナリオの解釈、ここが僕とずれてるぞ』みたいな感じで間違いを指摘してくれていた。でもなぜか僕には、 ニンマリ笑いながらふわあっとした言葉しかかけてくれない」


    「はい」


    岡本「あれはもう“禅問答”みたいな感じだった。だから富本監督の思いが何なのか、ひたすら考えるしかなかった」


    「それは、“信頼されていた”、“目をかけられていた”ということですよね」


    岡本「うーん、そうなのかな、どうかな。でもこれは間違いなく言える。富本監督には本当に鍛えていただいた」

    「師匠の仕事を受け継ぐ」

    「富本壮吉監督のご享年は62でした」


    岡本「残念だった。あまりに早い」


    「富本監督が亡くなられたのは1989年。テレビ朝日の2時間ドラマ枠で『松本清張サスペンス』や『家政婦は見た!』シリーズ(1983~/主演:市原悦子)など、ヒット作を連発されていた最中のことでした。その頃、岡本監督はどうされていましたか」

    岡本「『スタア誕生』、『ヤヌスの鏡』、『アリエスの乙女たち』――大映テレビの連続ドラマを監督し続けていた頃でした。もう助監督ではなかったから、富本監督にもしばらくお目にかかっていなかった」


    「そんなタイミングで、富本監督と再会されたんですね」


    岡本「テレビ局と製作会社のプロデューサーと僕に揃ってお呼びがかかった。富本監督は言われたよ。――体調が芳しくない。『家政婦は見た!』の新作は、岡本監督に委ねたい――と」


    「なんとお答えされたんですか」


    岡本「到底無理だと思った。師匠と仰ぐ人が手塩にかけて育てたシリーズだよ。あの時点で6作を数えていたヒット作品だ。それを、何も知らない人間がひょいっと顔を出して監督するなんて……そんな真似、できるわけないじゃないか」


    「そうですね」


    岡本「だけど一方で、撮影開始の予定日は迫っていた。だから僕はこう提案した。『わかりました。現場で“よーいスタート”と“カット”は私がかけますので、富本さんは”OK“か”NG“かのご判断をお願いします』……と」


    「富本監督はなんと」


    岡本「『岡本君、現場に大将はひとりだ。ひとりじゃなきゃ駄目なんだよ』と言われた。それを伺って僕も腹を括った。7作目の『家政婦は見た!』が完成して無事オンエアされたのは4月。そのひと月半後、富本監督はお亡くなりになった」

    「見届けられたんですね」


    岡本「富本さんからバトンを受け継いで10年以上、僕は『家政婦は見た!』を監督し続け、お陰様で26作目まで紡ぐことができた。いつか監督に会えたら『やれるだけやりましたよ』とご報告できるかな(笑)」

  • 「デビュー作の思い出」 『ファイヤーマン』

    岡:「300本以上のドラマを監督されてきたわけですが、ここでデビュー作の話に移らせて下さい」


    岡本:「助監督5年目の1973年。大映は大映でも府中のテレビ部ではなくて調布の方の大映スタジオ、あそこで『ファイヤーマン』の本編班でチーフ助監督をしていた。撮影も終盤に差し掛かったある日、プロデューサ―の円谷粲(あきら)さんに呼ばれてね、『一本撮ってみない?』と突然、水を向けられた」

    岡:「予想外でしたか」


    岡本:「特撮番組での監督デビューなまったく想定していなかったんでね。ありがたいけど、到底うまくやれる気がしない。なんとか断る方法はないものか……と考えた末、『僕が脚本を書いて良いなら監督させてください』と、条件を出したんだ。無論、脚本なんて“無茶な要求”であることを承知の上。こう言っとけば『うーん、そりゃちょっと難しいなあ』という返事が返ってくるはずだと思ってね。ところがプロデューサーの円谷粲さんは『いいよ。それで!』と即答するんだ。これには面食らった」


    岡:「逃げられませんね」


    岡本:「そこで基本のアイデア、ストーリーの流れを作り、実姉でシナリオライターの育子に連絡して共同で脚本を仕上げたんだ。当時は“使い捨ての時代”で、ゴミが大きな社会問題になっていた。ゴミの集積所“夢の島”を舞台に、使い捨てを問題にした作品を撮りたかったので、子どもを主人公にすることは最初から決めていた。子どもが大切にしていて壊れたハーモニカを母親が勝手に捨ててしまい、子どもは探し回る――

    ※『ファイヤーマン』第24話「夜になくハーモニカ」――捨てられたハーモニカが突如巨大化して、“夜の夢の島”でヒーローと対峙するファンタジックな物語。視聴者に大きなインパクトを与えた。佐川和夫特技監督の画作りのダイナミズムも相まって、当時の少年少女ファンに忘れがたい記憶を刻んだ一篇。


    岡本:「今でも大好きな作品ですね」

  • 「映画と『縁』ある一族」

      ――未来への夢

    岡:「いろいろなお話を伺って来ましたが、岡本監督のみならず、御一族は揃って映画に御縁が深いですよ」


    岡本:「そう最、初に話しましたが、祖父の高松豊次郎は映画制作会社の社長兼プロデューサ―。父の高松操(監督名、吉村操)は映画監督。若干18歳で大河内伝次郎主演作品で監督デビューし、38歳で亡くなるまでに200本程度の作品を遺した人でした」


    岡:「凄まじい本数ですね。岡本監督の早撮りは、お父様の血を受け継がれているのでしょうか」


    岡本:「そうかもしれません」

    岡:「今後、どんな作品を撮られたいですか」

    岡本「絶対に起こしちゃいけない“戦争の無慈悲さ、醜さ”を伝える、笑いと涙いっぱいのファンタジックな映画をね。私も歳を重ねましたが、伝えたいこと、声を大にして言いたいことはいっぱいある。それを分かりやすく、楽しく観客に投げかけていきたいって気持ちはますます大きくなるばかりです」

    岡:ありがとう、今日はありがとうございました。

    〈2025年8月28日浦和にてインタビュー

  • 【監督作品】

    『ファイヤーマン』 第 24 話 『夜になくハーモニカ』日本テレビ 1973 年

    『人はそれをスキャンダルという』TBS 1979/11/21 ~ 1980/04/17

    『黄金の犬』日本テレビ 1980/05/30~07/25

    『高校聖夫婦』TBS 1983/04/19~09/27

    『スクール☆ウォーズ 泣き虫先生の7年戦争』TBS 1984/01/06 ~1985/04/06

    『スタア誕生 A STAR IS BORN』フジテレビ 1985/04/10 ~ 1985/11/06

    『ヤヌスの鏡』フジテレビ 1985/12/04~1986/04/16

    『アリエスの乙女たち』フジテレビ 1987/04/08~09/23

    『青春オーロラ・スピン スワンの涙』フジテレビ 1989/04/10~09/25

    『家政婦は見た!』 シリーズテレビ朝日 土曜ワイド劇場 1983 年〜2008 年 全 26 作 第 7 作-第 15 作、第 17 作-第 26 作を監督

    『家政婦は見た!』 連続ドラマ版 テレビ朝日 1997 年 第 2 話、4 話、7 話、9 話、最終話を監督

    『法医歯科学の女』 シリーズテレビ朝日 土曜ワイド劇場 1995 年〜1997 年 全 3 作 全話を監督

    『女請負人』テレビ朝日 土曜ワイド劇場 2000 年

    『救急救命士 牧田さおり』 シリーズ テレビ朝日 土曜ワイド劇場 2002 年〜2015 年 全 10 作 第 1 作〜第 7 作、最終話を監督

    『火災調査官・紅蓮次郎』 シリーズ テレビ朝日 土曜ワイド劇場 2003 年〜2015 年 全 15 作 第 1 作〜11 作、第 13〜15 作を監督

    他 多数

    「劇場映画」

    【1979 年】

    「マジックカプセル 」 (ゴダイゴのドキュメンタリー映画)

    「ビーンズは片手で」 (豊協保険 PR.映画)